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奈留島を知る

奈留島の魅力や旬の話題、島の日常がつまった特集やお知らせをお届けします。
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特集
2026-08-18 13:12
伝統の蛸壺漁を体感!本物のタコ獲り体験記
伝統の始まり 古巣和也(ふるす かずや)さんは、ただの漁師ではありません。40年以上にわたり海に出てきた、伝統的な「蛸壺(たこつぼ)漁」のベテランです。 「漁を始めた頃は、どこにでもタコがおったんだけどね」と古巣さんは少し寂しそうな表情を浮かべます。「それからかなり数が減ってしまって」。しかし、ここ数年は少しずつ水揚げ量が回復してきており、最近の漁模様には手応えを感じているそうです。 日本の蛸壺漁の歴史は古く、弥生時代(2,000年以上前)にまで遡ります。当時から漁師たちは、「暗くて狭い隙間に隠れる」というタコの習性を利用して漁を行っていました。かつて使われていた素焼きの土器(素焼き壺)は、20世紀後半になると、軽くて丈夫なプラスチック製の専用壺へと進化しました。この現代の壺には、タコが中に入ると自動で閉まる仕掛け(自動扉)が付いています。土器からプラスチックへと素材は変わっても、「人工の隠れ家を海に沈め、タコが入るのを待つ」という本質的な手法は、2,000年以上もの間まったく変わっていません。 蛸壺漁のこだわりと現実 奈留島において、プラスチック製の仕掛けをいち早く取り入れたのが古巣さんでした。引き揚げる際にタコが逃げ出さない自動扉の導入により、漁の効率は劇的に向上しました。漁師たちが伝統的な土器からプラスチック製へと切り替えた最大の理由は、この作業効率の高さにありました。 しかし、仕掛けが自動で閉まるようになったことで、新たな問題も生まれました。狭い場所に閉じ込められたタコが、強いストレスから自分の足を食べてしまう「自傷行為」を起こすようになったのです。ストレスやパニックによる神経系の過負荷が原因とされていますが、幸いにもこうした事態が起きるのは水揚げ全体の10%以下にとどまっています。 手間の暇がかかる蛸壺漁は、底引き網(トロール漁)などの近代的な大量捕獲法に比べると、水揚げ量の面でははるかに非効率です。ではなぜ、今もこの漁法が残っているのでしょうか? その理由は、素材の品質を何よりも重んじる「日本の食文化」にあります。網漁などは一度に大量の魚介を獲ることができますが、網の中で揉まれることで繊細な吸盤がちぎれ、皮が傷つき、強いストレスで身にアザができて品質が落ちてしまいます。さらに、もう一つの大きな理由は「五島列島ならではの地形」です。岩場やくぼみが多い複雑な海底地形は、網を引き回すことができないため、蛸壺漁こそが最適な漁法なのです。 初めての蛸壺漁体験! 今回私たちは、古巣さんが実施している「蛸壺漁体験ツアー」に参加し、日課の仕掛けチェックに同行させてもらいました。観光客向けの体験ツアーは定期的に行われているものの、まだ知る人ぞ知る穴場の体験アクティビティです。 当日は2箇所の漁場を回りました。各ポイントには、全長300メートルにも及ぶ1本の幹縄(みきなわ)に、250個もの壺が繋がれて沈められています。 漁場へ向かう道中には、点在する無人島や荒々しい岩肌、どこまでも続く水平線、そして場所ごとに表情を変える海流など、息をのむような美しいロケーションが広がっていました。そんな大自然の絶景に加え、仕掛けを引き揚げ、壺からうまくタコを追い出し、船上の生け簀(いけす)へ移す一連の作業は、大興奮の連続でした。この日引き揚げた500個の壺から獲れたタコは18匹。「大漁だ!」と喜ぶ私たちに対し、古巣さんは「今日はかなり少ない方だよ。一番多かった時は1回で53匹獲れたからね」と笑いながら教えてくれました。 体験を終えて 体はすっかり疲れ切っていましたが、心は爽快感でいっぱいでした。港に戻ると、古巣さんから1人1匹ずつタコをお土産にいただき、事務所で温かいお茶を飲みながら楽しくおしゃべりを楽しみました。 伝統技術を肌で学び、最高の思い出と感謝の気持ちに包まれた、忘れられない特別な一日となりました。
特集
2026-08-17 10:15
奈留島の大粒アコヤ真珠:ある職人の、静かたる挑戦
三重県が誇る英虞湾は、言わずと知れた養殖アコヤ真珠の発祥の地であり、歴史にその名を刻む場所です。何世代にもわたり、そこは世界の真珠産業の中心でした。真珠養殖の技をDNAに刻み込まれた家系に生まれ、その技を継ぐ、その技を継ぐ三代目職人、清水多賀夫氏も、かつてはその地で活躍していました。 しかし、清水氏は単に受け継がれた伝統を繰り返すだけでは満足しませんでした。彼は、その常識に変革をもたらしたいと願ったのです。2003年、自らの探求心に導かれ、彼は数百マイル離れた五島列島の真ん中に抱かれた奈留島へと移住しました。荒々しくも美しい、ありのままの自然が残る海岸線に心を奪われた彼は、その地にある特別な可能性が眠っていることを直感しました。 奈留島はただ美しいだけではありませんでした。深く入り組んだ入り江と栄養豊かな海流は、水面下に隠されたある奇跡を育む、完璧な天然の良港だったのです。それは、清水氏の故郷には存在しない、この島固有のアコヤ貝の存在でした。 この静かな島で、一人の先駆者として歩み始めて20年余り。清水氏は真珠業界の常識を覆し続けています。通常、アコヤ真珠が11mmを超えることは極めて稀です。しかし、清水氏が奈留島の海から引き上げる真珠は、日常的に10mmを超え、中には13〜14mmという驚異的な大粒に達するものもあります。それは、世界中で珍重される大粒の南洋真珠にも迫るほどの大きさです。 この奇跡のようなサイズを生み出しているのは、奈留島の豊かな自然に加えて清水氏が磨き上げてきた独自の技術、そして、極めて緻密で根気の要る作業に何時間も耐え抜く強固な職人魂の結晶です。清水氏は、奈留島の穏やかな湾内から持続可能な方法で採苗した稚貝を愛用しています。この地で育つ固有のアコヤ貝は、本土のものよりも大きく成長するため、より大きな真珠を体内で育むことができるのです。 真珠養殖のルーツ 日本が世界に真珠養殖の技術を伝える遥か昔、天然の真珠は地球上で最も希少な奇跡の一つでした。かつての真珠ハンターにとって、野生の貝殻の中から一粒の美しい真珠を見つけ出す確率は、わずか千分の一程度に過ぎなかったといいます。 この希少性のために、人々は無謀な乱獲を繰り返しました。ほんの一握りの真珠を手に入れるために、何万枚もの野生のアコヤ貝が壊れて絶滅の危機に瀕したのです。 この危機から救ったのが、今もその名を持つ世界的ジュエリーブランドの創業者であり、伝説の先駆者である御木本幸吉(みきもと こうきち)氏でした。彼は、産業とアコヤ貝を救う唯一の方法は、自然の海に頼る狩猟ではなく、自らの手で真珠を「育てる」技術を確立することだと確信したのです。 御木本氏は、三重県鳥羽の相島で試験を重ねました。幾度もの失敗の末、1893年、世界で初めて半球形の真珠の養殖に成功し、最初のブレイクスルーを果たします。彼の挑戦はそこで終わらず、1905年には、現代の私たちが目にする完全な球形の真珠をつくり出す技術を完成させました。この偉大な功績を称え、相島はのちにミキモト真珠島と改名されました。 英虞湾で起きたこの革命は、世界の真珠市場を根底から変えました。それは歴史家たちが「真珠の民主化」と呼ぶ時代の幕開けであり、かつて王族や貴族だけのものであった手の届かない贅沢品を、世界中の人々が手にする普通の商品へと変えたのです。 さらに、御木本氏が残した功績はビジネスだけに留まりません。貝の生態や自然の営みを深く理解し、それと共生しながら真珠を育むそのアプローチは、人類がバイオテクノロジーを伝統的な形で応用した、最初期の優れた成功モデルとして捉えることができます。 あなただけの特別な真珠ブレスレットを 清水氏の工房は、彼が営む真珠養殖場のすぐ傍らに佇んでいます。奈留島の中でも、最も静かで、絵画のように美しい海岸の入り江にひっそりと佇むその空間。工房内はシンプルで心地よく、ゆったりとした静寂に満ちており、都会の忙しい旅のペースを忘れさせてくれる穏やかな空気が流れています。 メインホールには、清水氏が手がけた創作ジュエリーが展示され、この大粒なアコヤ真珠が放つ多様なデザインの魅力に触れることができます。そしてここは、単に作品を眺めるだけの場所ではありません。訪れた人々が、自らの手で形にする創造の場でもあるのです。 この島で育まれた唯一無二のアコヤ真珠を自分で選び、組み合わせ、あなただけのオリジナルジュエリーを作る体験が用意されています。もし奈留島を訪れる機会があれば、この工房と養殖場に少し時間を割いて立ち寄ってみることを心からおすすめします。一生をこの仕事に捧げてきた職人のすぐ隣で、一粒の真珠が生まれるまでの丁寧な手仕事に直接触れる体験は、この島との忘れられない絆を結んでくれるはずです。